平安時代から続く最古の退魔士一族として名を残す家系。
退魔業の源流であり、旧代三鏡などの伝説上の退魔組織と共闘したというのだから
その歴史の重みをひしひしと感じさせられる。
大正後期に発足した退魔士協会には直接属さず、独自に退魔業を営んでいる。
それは単に協会所属のメリットが無いだけで、聴取できる範囲の取引姿勢も健全であり、
洗練・特化された戦闘技術と共に、退魔士の模範として信頼を集めている。
妖怪が跋扈した昔から現在まで「純系」の退魔士一族として名を残す家系。
滅殺対象となる妖怪が漸減し始めた大正時代後期、退魔士間の利権を守るために
退魔組織制を導入したのが九重家である。
中枢である退魔士協会に仕事依頼を集中させ、それを難度に応じて各組織に
均等配分するという退魔業の企業化は時代の潮流に応えた試みであったと言えよう。
また、九重家は退魔業情報化の先駆けとしても知られる。
退魔業は古くから秘密裏に行われる事が多く、非常に古臭い商慣行が横行しており、
企業化初期には営利組織と非営利組織との対立が見られた事もあった。
その事態を重く見た九重家は、「競争原理が働く範囲内」で退魔業の基本報酬体系を
打ち出す事により、とりあえず事態の鎮静化を成功させたのである。
現代退魔士家系の中では九重家は強い影響力を持つ。
九重家の管轄である退魔士機関「黒槌」は有数の複合経営組織として知られる。
直接的には退魔士ではないが、平安の時代より薬を扱ってきた家系。
毒・神経・精神といったあらゆる症状に対抗する薬作りに取り組み、大正時代の最盛期には
反魂丹(人を生き返らせる丹)にまで手が届くとすら言われたが、頓挫している。
原因は明治時代初期に起きた「三名家当主の神隠し事件」にあるとされるが真偽は不明。
退魔薬術が完全な形で存在していたのは当時の当主・白銀折の代までだとされる。
表向きは老舗の薬局として存在しているが、やはり退魔薬師としては衰退著しい。
しかし、芦木・高咲とは違って後継を残せた事だけでも救いがあると言える。
江戸時代中期〜明治時代初期まで要人の医師を務めてきた家系。
当時は秘密裏に退魔業を行う時代背景もあり、尋常ではない怪我を負った者などは
普通の医師には見せられないという事情から、このような退魔医師を求めたのである。
直接的には退魔士ではないが、平安の時代より伝わる退魔医術を行使できたとされる。
特に呪詛払いを得意とし、数々の英雄を救ったという言い伝えが残っている。
九重家の台頭と共に姿を消したとされるが、徐々に衰退したわけではない。
退魔士協会の発足とほぼ時期を同じくして、直系血族の全ての行方が不明となったのである。
これは高咲家の「神隠し」同様に退魔士史上最大の謎とされ、物好きの話の種となっている。
最後の当主は芦木藤助の父・芦木教融である。当時にしては気さくな人柄の名医であった。
江戸時代中期〜明治時代初期まで魔術研究の任を与えられていた家系。
当時の言葉に言い換えると呪術や陰陽術・神術の類の研究であるが、世間の需要もあって
西洋魔術などの研究も行ってきた。
補助的機関としては、魔術を扱えるために戦に駆り出される事も多かったらしく、
実戦と理論両方で高水準を保てたという意味では、非常に将来性があったと言える。
なお、芦木家で前述した通り「神隠し」によって高咲家は途絶えている。
最後の当主は高咲燈花である。失踪当時の年齢は満18歳と若い。
江戸時代中期〜明治時代初期まで桜守の任を与えられていた家系。
明治時代中期に任を解かれてからは没落の道を歩んでおり、かつて華やいだ時代の
名残として150町歩(農業用地含む)の土地を所有するのみに留まっている。
世間的には豪邸住まいであるが、もはや給仕を雇うほどの財力は無いらしく
当主は固定資産税の支払いに毎年頭を悩ませるという、何とも庶民的な旧名家である。
緋桜家は元々園藝に聡い家系であり、蓄積された知識は並々ならぬものがある。
桜守のみならず、農業振興に努め、地域の農業水準を引上げた点での功績は大きい。
その功績が還元されるのかは定かではないが、緋桜家に生を受けた者には極めて稀に
「自然と調和する程度の能力」が発現する事があり、その者は緋桜家の次期当主としての
特殊な教育を受ける事が義務付けられる。
観緒はその能力の久々の発現者であるため、箱入り娘同然の扱いをされているのである。
基本的にこの能力が発現した者は短命とも言われているが、退魔士社会においては
「能力がある事は危険に巻き込まれる事である」という解釈が平気で為されているため、
具体的に検証されるという事は今後まず起こり得ないであろう。