「遠けき空に、青濁し」 作:(腹)黒猫 /終戦の鐘、未だ鳴らず ぽたりぽたりと、赤い模様が続いてく。 点々、点々、どこまでも。 聖地<エデリオン>を穢していく。 点々、点々、いつまでも。 その先、ずっと先に、二人の影があった。 一人の名は牙刃、右腕がなく、胸と背から止め処なく血を零していた。 もう一人の名はオリカ、無傷で、怪我した牙刃に肩をかして、ずるずると歩いていた。 オリカは方は、その身体を牙刃の血で濡らしながら。 点々、点々、血は続いていく。 「ほら、銀鱗亭<メイムナー>が見えてきたわよ」 「ああ・・・・すまん、目が見えなくて・・・・」 「大丈夫よ、帰れば、ちゃんと治してもらえるから」 「だと・・・いいっすね・・・・」 「なに弱気になってるのよ。あなたらしくもない、ほら、いつもの根性見せなさいな」 「はは、手厳しい・・・・」 銀鱗亭<メイムナー>まであと少しだと、彼女は言った。 今、牙刃の視力は無いに等しく、身体の殆どの機能も失われつつあった。 やがて身体の熱も完全に失われていくのだろう。 事実、既に両脚の感覚は消え、動く事もままならず、引き摺られているのとほぼ同等であった。 両脚だけではない、乾いた唇の感覚も、掴まれた左腕、その腕を掴んでいるオリカの手のぬくもりや、露出した肌に触れたぬくもりも、殆ど感じられなかった。 ただ、彼女<牙刃>の感じられることは、喉の渇きと、まだ聞こえる彼女<オリカ>の声と、足音と、血の零れ落ちる音と、 消えていく自身の体温と、次第に軽くなっていく自分だけであった。 ふと、僅かに動く首を動かし、顔を上げた。 見上げる空の青さはわからない。ましてや、今が朝なのか昼なのか夜なのかもわからない。 戦火の音が遠のいていくことすらわかっていなかった。 「・・・・なあ、オリカ・・・・今は・・・・青空・・・か」 「・・・青よ、青空よ。清々しいくらい。綺麗な青空よ」 「そう、っすか・・・・」 ひゅうひゅう、と牙刃は喉を奥底から笑んだ。 二人の頭上で、星々が瞬いた。月が光を降り注がしていた。 気紛れな、夜の闇に染まった雲が流れていく。 「シャロルは・・・・」 「え?」 「・・・シャロルは、助かった・・・すか?」 「えぇ、助かったって聞いたわ」 「良かったっす・・・・」 「ほら、あなた、またシャロルに奢ってあげるんでしょう?彼女が無事なんだから、あなたも無事に帰らなくちゃ」 ずるずる、と牙刃の動かなくなった両脚が、地面を削る音が響く。 ざっざ、とオリカの足音が響く。 虚しく、寂しく。 点々、点々、小さな血の池があとにならう。 ふいに、脳裏を過る言葉――走馬灯のよう。 生とはかくも儚く、脆いものだと、ぼんやりとする頭の中で、牙刃は思考した。 寿命で追いつけないことに、人間は何を思うのだろうか。 寿命の短い人間に、亜人は何を思うのだろうか。 そんなことを、考えた。 けれど、そこに自分はいない。 自分は、人間としても亜人としても中途半端な存在なのだ。 だから角を折られ、売られ、捨てられ、拾われ、育てられ、裏切られ、それでも足掻いて、此処<其処>に居た。 そんな幼かった自分が脳裏に佇んでいた。 牙刃の目の前を歩いていた。 その幼い自分の背中が、ひどく大きく見えて、それが今の自分なのだと、そしてそれに成り得なかったのだと悟った。 「ああ・・・・腹が減った・・・・」 「・・・だったらまず、無事に帰りましょう」 「それも、そうっすね・・・・」 「だから、ねぇ、また皆と・・・・・」 全ての者に平等で、人は死ぬと軽くなる。 どんなものでも、死ねば少し軽くなる。 「ああ・・・・」 「だから・・・・また」 「・・・・・」 「もう少しだから、もう少しだから」 「・・・・・・」 「また、奢ってあげるんでしょう?また、可愛い子の頭を撫でるんでしょう?」 「ああ・・・・・」 「だから、生きるの。生きなさい。あの子が助かったんだから、あなたも、生きて・・・笑顔で」 「だけど・・・・」 「・・・・なに?」 「だけど・・・やっぱり・・・・眠いなぁ」 「なによ、それ」 でも、寝たら駄目っすよね。 ハンナベルやリデルや、クマのおっさんやら、厨房の奴等に溜めたツケとか。 結局、勝てなかったエアリィとの訓練や。 「勝手に死ぬな」と言ったあの二人にも。 「ほら、もうすぐそこだから・・・」 「・・・・・」 「だから・・・・」 「・・・・・」 「ねぇ・・・寝たの?」 「・・・・・」 「寝るなら、医務室のベッドで寝なさいよ」 「・・・・・」 「ねぇ、起きなさいよ。ほら、こんな時に寝たら風邪、引いちゃうでしょ?」 「・・・・・」 「ほら・・・起きなさいよ・・・・ねぇ、ほら・・・・」 点々、点々、血の跡は小さく。 点々、点々、涙の池は大きく。 深く深く、牙刃は眠りのとばりへ。 ぼろぼろと、誰かの涙が腕に当たった。 微睡みへと落ちていく牙刃は、小さく、吐息を吐いた気がした。 軽くなったのは自分なのだろうか。それとも、重力なのだろうか。 だけど、とりあえず――― 終戦を告げる“鐘”が、鳴り響いた。 “ただいま” ばいばい、 目次へ戻る |