「明月・後編A」   作:匿名希望





「ん、んん……ん? ……ひっ」
閉じた意識の中。何やらもぞもぞと動くのを感じた。
夏と言えど朝は寒く、腕の中の温もりを抱きしめようと――
「なんじゃこれはぁぁぁあああーーッ!!」
「がべごっ!?」
顎を直下からカチ上げられる痛みに悶絶しひっくり返る。
「この腐れ坊主! 儂に何をしおった!!」
「……っ……っぅ」
悶絶し倒れたまま目を開くと、着物の前を手で押さえこちらから距離を取る娘がいて。
……しばし黙考。
肌蹴た着物、腕に抱いていた温もりの残滓。この二つが指し示すものは。
「……覚えてないでござるか?」
率直に聞くと、娘の顔が蛸のように茹で上がっていき、大きく足を振り上げた。
「何をしたっ! 何をしたっ! 昨夜儂に何をしよったんじゃッ!!」
だむだむと力強く芯の通った震脚が次々と襲ってきて、それを必死に避ける。
「おわっ!? なにもっ! 何もなかったでござるっ!」
「嘘をつけ嘘を〜〜ッ!!」
襲いかかる足を転がりながら逃げ続け、それを娘は踏みにじろうと延々と追いかけ、それがしばらく続いて。
「ぜーっ……ぜーっ……ほ、本当に……なにも、なかったの、じゃな……っ」
「ぜーっ……ぜーっ……そ、そうで……ござる、よ……っ」
息も絶え絶えとした二人がいた。
「とりあえずは……信じようかのう」
ようやく矛を収めた娘を見て取り、こちらもようやく言いたいことが言えるようになる。
「それでその……」
「なんじゃ?」
キョトンとする娘から視線を外しながら、申し訳なく思いながらも指を指す。
「……見えているでござるよ」
「――はい?」
娘はその指す先――己の着物の肌蹴を見て。
「〜〜っ!!」
腕が突如掴まれ、反応するより先に体が宙を舞う。
「り、理不尽でござるっ!?」
理解し言葉を発すると同時に、滝壺へと着水した。



「……」
「……」
気まずい空気が流れていた。
先を行く娘の背中から冷めやらぬ怒気が放たれ、その後ろをまだ湿る法衣の自分が続く。
時折娘が申し訳なさそうにこちらへと振り返るが。
「……に、にこっ!」
「ぷい!」
笑いかけると膨れ面になり顔を背ける。
女心は下に解らぬものなり。
「はあー……」
溜息を吐きながら城跡へ進んでいくと。
……何か空気が変わった。
「……どうしたんじゃ」
急に止まったことへ不審な顔をする娘を見ながら――思いっきり前へと飛んだ。
「おぅわっ!?」
突如迫られ戸惑う娘の声を聞くと同時に。
「きぇえッ!!」
すぐ後ろで奇声と共に刀が振り下ろされた。
「ひっ!?」
空ぶった刀から娘を軽く抱きかかえ離れると、その持ち主が見えてくる。
垢汚れた服を身に纏った堅気ではない容姿の男……いつぞやの山賊の子分の一人であった。
身を固くする娘を後ろに庇いながら周囲を見渡す。
「いるのはわかっているでござる。正面を向いた相手に奇襲も何もないでござろう。出てくるでござる!」
そう声をかけると。
「ったく。だからもっと息殺せと言ったんだ!!」
「すいやせん親分」
もう一人の子分を連れて親分が木の裏から姿を出す。
「……あ、あやつっ」
娘が袖を強く掴むのを感じながら、親分を見据えた。
「よう。久しぶりだな坊主」
二人の子分を従え、親分は横柄に言う。
「山賊が拙僧に何の用でござるか?」
「なぁに、前の時の礼をしようと思ってな」
「礼など、拙僧は仏門故に礼は仏にしてくだされ」
遊ぶような会話。だがそれがぴりぴりと張りつめていく。
「まあ実際、礼はおまけだ」
にやにやと笑いながら親分は視線を娘へと向ける。
その下卑たる視線から娘を隠そうと前へと出る。
「おい坊主!」
「なんでござるか」
親分は実に楽しそうに言う。
「その娘を置いて去りな。そうすればお前は見逃してやる」
「……っ」
ふと娘を見る。
見上げる視線と目が合い、その瞳は不安と諦めに曇りつつあり。
「さあ、さっさと娘を――」
「断るでござる」
迷いなく言った。
「ああ?」
「お主らのような悪漢に従う道理がないでござる」
「なんだとぉ?」
実際は悪漢云々など関係はない。
ただ――
「どうせ聞く耳もたぬでござろう? その身をもって御仏の教えを教授してござろう」
――怯え震える娘を穢されたくないために。
親分は聞き終えると深々と息を吐き、刀に手をかけゆっくりと抜き放った。
「上等だクソ坊主。ナマスにして野犬の餌にしてやらぁ!」
合わせて子分も刀を抜く。
「っっ!」
それに怯える娘の頭に手を置いた。
「離れて置くでござる。少しばかり捻ってくるでござるので」
強く掴まれた袖から優しく指を外す。
「あ……」
娘は心細いと顔に出すが。
「し、死ぬでないぞっ!」
精一杯の声をかけてくれた。
「まさか。楽勝でござる」
それに笑いを返した。
娘が離れるのを見届けて、向き直る。
「ちぇああ!!」
「しゃぁああ!!」
すでに子分二人がこちらへ駆け寄っていて。
それに、一歩踏み出した。

触れ、掴み……いなし、投げる。
「……ふっ」
「お、おおおっ!?」
それだけで子分の体が空回るが。
「せぇえっ!」
「くっ!」
思った以上に苦戦していた。
本来、『合いの気』は柔術や組手術や捕縛術など組む、投げるといった『手間のかかる』流れを組む流派である。
殴る、斬ると言った単純な動きとは違い組む、投げるはまず触れる、掴むという一行程多いのである。
ゆえに単純な攻撃よりもわずかに速度に差ができ、それゆえに多人数を一度に相手にするのは得意としない。
「ちぇや!」
「おりゃ!」
「――はっ!」
二人相手だけならまだよかった。だが問題は、その二人が複数での争いに慣れていることであった。
「うおっ!?」
片方を投げても、その間にもう片方が斬りかかり。
「おらっ!」
「ふっ」
そっちを相手にしている内に、先に投げた方が起き上がる。
「腐っても……山賊でござる、なっ!
二人の後ろにはまだ親分が控えているが、道幅の都合上二人が並ぶのが限界なのが唯一の救いか。
「ちっ! ひょいひょい投げやがって!」
「ちっとも当たりゃしねぇ!」
荒く息を吐いて二人が同時に距離を取る。
ちょうどこちらも一息吐きだかった。
かといって。
「切りがないでござるなぁ」
決定打に欠ける状況。
何より気になるのが。
「くくく……」
先ほどから余裕の笑みを浮かべる親分の存在である。
何か忘れている気がする。
「りゃああ!!」
「死ねやあ!!」
だが考える暇はなく、かかってくる二人へと相対した。
「やれやれ、ちとしんどいでござるな」



少し離れた場所からあの僧侶の事を見ていた。
一人を掴み投げるともう一人がかかり、その間に先の者が立ち戻る。
口でこそ楽勝と言っていたが、様子を見る限り芳しくないのは明らかだった。
「……なにをやっておるんじゃ」
じれた思いから出た言葉。だがそれは自分へと返る。
「儂は……ここで、何をしておるんじゃ」
自分を差し出せば助かるはずなのにあの僧侶が戦っているのは誰の為なのか。
それを見て、なぜ自分はただ怯え震えているのか。
非力だから、人が恐ろしいから、まだ目的を見つけてないから……。
様々なことが頭に浮かび、己を責め、そして許す。
ならしょうがない。だったらしょうがない。
諦めと言う棘がチクリチクリと胸を刺し、掻き毟りたいほどの痛みをもたらす。
「ああっ!!」
視線の先で僧侶が危うく刀を躱した。
すでに心は千切れそうで――
ガサリと小さな音が耳へと入った。
反射的に音のした方向を見ると、そこに木の陰に息を潜める子分がいた。
「――っ」
その三人目の子分の視線の先には二人の子分相手に集中している僧侶がいる。
親分を見ると全てをわかっているかのように笑っている。
「ぁ」
告げようと思った。
だが告げてどうする?
確かに奇襲は避けられるかもしれないが、その場合前後から挟まれて僧侶が好転することは一つもない。
「――」
ガサと隠れていた子分が動き始める。
どうするべきか、どうするべきかどうするべきか――
しょうがない、しょうがない、諦めろ――

――なにを?

ざくざくと子分が走り出す――今なら間に合う。

――なにが?

……己は非力だ……ここ数日で何を学んだ?
……人が恐ろしい……あの僧侶もか?
……まだ目的を見つけていない……なら――
気が付けば足は一歩を踏み出す。
ならば――
一歩は二歩になり、すぐに駆け足となる。
今、ここで――
走り、走り、走る!
体は風を切り、足は地を蹴り、目指す背中はすぐに追いついた。
「……っ!? なぜここに来た! 危ないぞ!」
荒いが誠実そうな声。それが僧侶の地なのだろう、聞いてて安心した。
この場で――
それに背を向け背中を合わせると、こちらに駆け寄る子分がいる。
その手にはすでに刀は抜かれ大きく振りかぶっている。
「じゃまだああ!!」
「娘っ!!」
すでに離れることなど頭になく、手は今だ震えるが問題ない。
――この場限りの目的を見つけよう――
足は自然、手は自由、腰は自立し、体は自在、脳裏に描くは自の教え。
「くそ! 知らねえぞ!!」
刀を振りかぶったまま子分が走り寄ってくる。
『人を水車と見よ。芯は軸で、気は水で、体は車輪と同じ』
「……」
目の前の荒ぶる子分の気が手に取るようにわかった。
「ちぇりゃあ!!」
振り下ろされる刀。
『軸は軸、水は間、車輪は円へと通じ』
肩を軸とする刀の円の動きを捉え、奔る刃へと手を添えた。
『なれば軸を捉え、水を加えれば、車輪が回る』
「はれ?」
ほんの僅かな力。それを刀を通る気に乗せ、そこから相手の体という水車を回す。
『気と気を合わせ、間と間を合わせ、気と間を合わせて――これ合気と言う』
ブワリと全身の力を空回された子分の体が浮き上がる。
浮いた体はそのまますっ飛び、僧侶の頭上を通過し。
「ぐえっ!?」
相対してた子分の一人を巻き込み転がった。
「「「……」」」
皆が呆然とこちらを見つめる中。
「どうじゃ!」
毅然と胸を張った。



目を見張った。
己の頭上を通過した子分に、そしてそれを成しえた娘に。
始めて会った時、怯え逃げようとしていた娘。
それを慈しみ護ろうと思っていた。
それが自分はどんな体たらくだ。
逆に護られているではないか。
怖くないはずはなかろう。恐ろしくないはずはなかろう。
それは微かに震える娘の手が教えていた。
なれば、なれば、なれば――自分はそれに応えねばなるまい!
「――」
相手は呆然として隙だらけで、容易くその腕を掴んだ。
「え?」
「できれば、やりたくなかったでござるが」
トン、と軽く足を払いながら子分を投げ、掴んだままの腕は体の回転に乗れず、骨を自らの体重で容易く砕いた。
生木を無理やり圧し折る音がした。
「ぐ――ぐぎゃぁぁああッ!!」」
娘にはあえて教えず、自らも禁じていた技。
いなす、投げるに次ぐ『折る』という技。
叫び喚く子分の首筋を狙い意識を断つと、残りへと向き直る。
そこには何とかもつれから立ち上がろうとしている子分二人。
「すまぬでござる」
先に詫びを入れ、すかさず走り込む。
「ぐ、おっ!?」
掴み、捻り、外す。
対応する間もなく両肩の関節を外される激痛に泡を吹いて気を失う。
「ひっ!」
なんとか態勢を立て直した子分が恐怖からか振る刀を狙い打ち、よろけた体へ手を伸ばす。
触れ、投げ、たたき折る。
地面に叩きつけられ両足を叩き折られ這いずり絶叫する。
何のことは無い。ここまで十も数えていない。
「さて」
未だ状況が掴めず目を剥いている親分へと向き直る。
「……っ!」
慌てて親分は刀を構え直す。
隣に小さき相方の気配を感じた。
「覚悟は――」
「――いいじゃろうのう?」
娘と並び言う言葉に、だらだらと冷や汗を流す親分に逃げ場は無く。

「ぎゃぁぁぁあああーーッッ!?」

当然楽勝だった。



「いくのかえ?」
そうかけられた声は少し寂しそうだった。
山の麓。すでに日は西へと傾き、かすかに茜に染まり始めている。
「すでに用は成したでござる」
山賊たちは村の者たちに引き渡した。これからどうなるかは村で決めるだろう。
「はて」
娘が首を傾げる。
「そういえばお主の目的はなんじゃったんじゃ?」
その問いには人差し指を立てると口の前に持っていき、片目を瞑った。
「秘密でござる」
「……なんじゃ」
若干拗ねた娘を見て、口元がほころぶ。
そして娘は森の境目から、こちらを見つめる。
「これから……どうするのかえ」
「そうでござるな」
茜色が娘を、全てを染めていく。
「今日は東へ、明日は西へ……全ては御仏のままでござる」
交された視線は糸となり、二人の間で繋がっている気がした。
「……そうか」
その寂しそうな声に。
「一緒に、来るでござるか?」
思わずそんな言葉が口をついた。
「っ」
その言葉に娘は躊躇う様な気を見せる。
「……」
迷い、逡巡し……一歩、森の外へと踏み出そうと――
「…………っ!」
踏み出せなかった。
「すまぬ……儂はっ!」
「いいでござるよ」
顔を曇らせる娘の言に被せた。
「ゆっくりと、己を見つけるでござる」
「……己を……見つける……っ」
心より笑うと、小さな笑みが返ってくる。
それだけでこれから先が明るいのだと思える。
「ではそろそろ……」
日は先ほどよりも傾き、空が赤紫に染まり始める。微かな西日に自慢であろう黒い耳が艶光る。
「うむ……」
千秋の思いを振り切り、背を向けようとして――ふと思い当たる。
「そういえば」
「ぬ?」
背を向けてそのままクルリと一回転して向き直る。
娘の怪訝な顔を見ながら、思い当たったことを口にした。
「互いに名乗っていなかったでござるな」
娘はぽかんと口を開け。
「……ぷ……くくく、そうじゃのう……そういえば儂等は実に不思議な関係よの」
笑う。
「名を知らぬまま別れも風情はあるが、少し寂しいでござる」
「そうじゃのう」
小さく小さく笑い合う。
「名乗るでござるか」
「名乗ろうかのう」
頬を吊り上げながら。
「拙僧の名は――」
「儂の名は――」
互いが互いに、その胸に忘れえない名を刻みこんだ。





「というのが今回のあらましでござる」
夜も更けたこの時刻。
ぼろい法衣を身に纏った柔そうな僧侶がその神社にいた。
神仏混合。寺に神主がいても神社に僧侶がいてもおかしくないこの時代だが、その僧侶はやけに浮いていた。
「いやぁ向かい来る山賊たちを千切っては投げ千切っては投げ――」
誰もいない神社の中心。
楽しそうに語る声に返す声があった。
「それは誇張が過ぎますよ」
「あれ? ばれたでござるか」
それは絞った弦のように張り詰め凛とした声だった。
「何も知らないと思わないことです」
それは巫女装束を纏った女だった。
僧侶以外誰もいないはずのその場所に突如現れた女。
「失敬失敬。“神”に偽っても意味がないござるな」
それは神であった。
「戯れるのもいい加減になさい」
すらりとした妙齢の女。その頭には狐の耳を、その背には四本の尾を従える。
女は四尾の仙狐にして、ここら一帯の土地を収める土地神であった。
「それで、肝心の娘の方は?」
焦れたように女は聞く。
「万全でござる。なんとも呑み込みが早く、身を守るだけなら何ら問題はないでござる」
「……そうですか。よかった」
そう、全ては彼女が元。
これも全てあの娘のため。
ほっとしている女へ僧侶は言う。
「そんなに心配なら自身で直接行けばいいでござろうに」
女は自重的な笑みを浮かべる。
「それができればどんなにいいか。私が近づけば娘の“中の者”を刺激委してしまいますから」
それは苦い思い出か。
振り切るように女は首を振ると僧侶へと向き直る。
「世話になりましたね。少なからず礼をいたしましょう。何か望みを言いなさい」
その言葉に僧侶は考え。
「……特にござらん」
ハッキリと言った。
「……それではあなたに何の得も」
「そこに困る者があらば、人であれ、妖であれ、神であれ助くるのが仏の教えでござる」
女は大きく息を吐いた。
「それです」
「ん?」
「あなたは“いつまで僧侶を語るのですか?” あなたからは仏の鱗片さえも感じられません」
「……」
確かに僧侶は仏門と言いながら一度でさえ念仏も読経も数珠さえも使っていない。
それに“僧侶でない僧侶は”ゆっくりと口を開いた。
「僧侶という身分は便利なので使っているだけでござる。いまさら仏に救いを求めるという逃げはできぬでござるよ」
「仏門でないなら望みを」
「ただ、先の思い。助くるものを助くる……この思いに偽りはないでござる」
「……」
それは遠い過去からの戒め。
僧侶は立ち上がる。
「そろそろ行くでござる」
その顔には何の気負いもない。
「……では道中の無事を祈りましょう」
それに僧侶はカラリと笑った。
「神に祈られるとは何とも頼もしい」
そして背を向けると、一度も振り返らずに歩んでいく。
闇夜を踏み歩いていく背中を見送った後、女もその姿を消した。
静まり返った社だけが、そこに残された。



これだはただの古い出来事。
語られることすらなく埋もれた些細な昔話。


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