「明月・前編A」   作:匿名希望





その日は快晴だった。
朝露が消えカラリとした陽気の下、ほぼ更地となっている城跡の上で娘と向かい合う。
そして腕を組んだまま、昨日の約束のため娘へと等々と語る。
「まずこれから教えるのは『合いの気』と呼ばれるものでござる」
「愛の気? 仏の慈愛を説くならいらんぞ」
怪訝そうな顔をする娘をたしなめる。
「その『愛』ではござらん。まあまずは聞くでござるよ」
「むう……」
娘が黙るのを待ってから続ける。
「この『合いの気』は元は武士の合戦術の、剣術弓術槍術馬術柔術……等々の中でも柔術または組手術の理の一つを特化させたものでござる。
この『合いの気』の見出した祖は言ったでござる。『この世に絶対の人の理あり、全てに芯があり、全てに気があり、全てに体がある。この世に絶対の術の理あり、全てに軸があり、全てに間があり、全てに円がある。これすなわち』」
「ああもう小難しい説法はいい!」
そして語りは突如遮られ。
「もっとわかりやすく説明せんか」
「結構重要なのでござるがなぁ……」
つい愚痴っぽくなりながら要点をまとめる。
「要約するなら、人を、その中心たる芯、芯の意に沿い流れる気、気によって動く体で表しているでござる」
「ふむふむ」
「そしてそれは技にも通じ、その場合は中心たる軸、軸を取り巻く間、間を測る円という形になり。この人と術の気と間を合わせ制するのという思想が『合いの気』の基本でござる」
足元から石を抓み上げる。抓んだまま端を弾くと、挟んだ指を軸に石はくるくると回転する。
「相手の芯を術の軸を捉えれば、自然と気と間を捉え、力込めずとも体は円を描き制することができるでござる」
石を指で弾き、それを今度は指先で捉えた。そして石はそのまま回転を続けている。
「ほいっ」
石を投げると娘は慌てて受け取った。
「む」
娘は指を立てると、その先に石を乗せようとするがまったく上手くいかず。
「かっかっか! 石と言えど軸を捉えるなど早々できるものじゃないでござるよ」
それを見て笑うと、娘は石を地面へと叩きつけた。
「だったら早く教えんか!」
「せっかちでござるな。短気は損気でござるよ」
「誰が短気にさせておるんじゃ!」
「ふうむ、では」
そう言って娘の手を掴んだ。
「……これは何の真似じゃ」
娘の半眼に真面目くさった顔で言った。
「相手の芯や軸を捉えるのには、まず芯を体で理解しないといけないでござる。そしてそのきっかけにちょうどいいのが、体に直接的に芯を教えることでござるよ」
「それは……まさか」
恐る恐ると聞く娘に大きく頷いた。
「しっかり回すので芯を把握してほしいでござるよ」
「ま、待て――ぬぁぁああっ!?」
くるりくるりと小さな体が宙を舞った。



何度回転し空転し宙返っただろう。
すでに百を超え、二百に迫った頃から感触が変わった。
娘の中で常に流動していた芯が、ある程度定まったような感覚。
「てやっ!」
「おお」
宙に浮いていた娘がこちらの手を蹴りつけ、そのまま回転しながら離れた場所へと着地した。
「さすが兎の化生。体感は抜群でござる」
その様子を見て笑う。
「う、おおぉぉ……世界が、回る……」
ふらふらと耳と頭を揺らしていたが、娘の足はしっかりと地に立っている。
芯を捉えた証拠であろう。
「自身の芯は理解したでござるか」
娘は無理やり頭を振るとこちらへ食って掛かる。
「くるくるくるくると独楽のように回しおって! 嫌と言うほど自覚したわ!!」
思ったよりも元気な反応に頷く。
「では忘れぬうちに復習しておくでござるか」
再び掴まれる手に娘は慌てるが。
「ま、待てぃっ!?」
「待ったなしでござるよー」
「ぬぁぁぁあああっ!?」
悲鳴が城跡に遠く響いた。



「今日はこれぐらいにしておくでござるか」
そう言ったのは日が頂点を過ぎた頃だった。
もはや耳はへたれ幽鬼のごとく漂い、ゆらゆらと陸のクラゲとなった娘は死んだように返事をする。
「……ぉ……ぁ、ぅ……」
「うむ。元気そうでござるな」
「ど……どこが……じゃ」
しっかりと突っ込む辺りはさすがだった。
「まあ、今日一日はそんな状態でござろう。そこで休んでおくといいでござる」
そう娘に言い残し、城跡周辺へと分け入った。
探す物は意外にもすぐに見つかった。
山菜、木の実などの食べられる植物を手早く集める。
「まだ使えるでござるね」
途中見つけた井戸は枯れておらず、まだ使えるようなので竹筒にたっぷりと注いで栓をした。
そうして十分な量を持って帰ると、娘はまだへばっていた。
「少し遅いでござるが昼餉でござるよー」
娘はのっそりと坐った瞳を向ける。
「……いらぬ」
「まあそうでござろうな」
まだ娘の中では内臓がぐるぐると回っているに違いない。
「せめて水だけでも飲むといいでござるよ」
竹筒の蓋を開けて差し出すと初めは嫌がっていたが、やがて手を伸ばして受け取る。
「……んく、んく、んくんく……ふぅ」
「少しは楽になったでござるか」
山菜を食みながら聞く。
「少しはのう。まだ世界が揺れておる」
娘が落ち着くのを待ってから口を開いた。
「ここは……立派な城だったのでござろうな」
「……」
今いる場所は石垣の上。不自然なまでに平ら地面に時折ある残骸だけが人の営みがあったことを教えてくれる。
幾人が仕え、幾人がここで散ったのか。
過ぎ去り、振り返ることさえできない過去へと思いを向けていると。
「……わからぬ」
「ぬ?」
風に消えそうなほど小さな声。
「わからぬ。儂が世を認識した時、すでにこうじゃった」
目を向けると、娘はどこか遠い……ここではないどこかを見つめていた。
「じゃが……なにやらここにいると、いつも胸の奥からちりちりと焦がし締め付けるようなものが湧き出るのじゃ」
風が二人の間を吹き抜け、娘の長い髪が広がり、陽光に艶めいて映える。
その横顔に見たことも無い――だが娘に似た女の顔が不意に重なった気がした。
「……」
手にしていた野苺を口に放り込み、娘の食べる分だけを残すと立ち上がった。
「今日はそろそろ帰るでござるよ」
日は西に傾いているがまだ高い。
それでもどこか居づらく、逃げるように振る舞ってしまう。
「そうか」
娘の言葉は素っ気なく、まだ遠くを眺めている。
「ではまた明日」
背を向けると、振り返ることなくそそくさとその場を後にした。
まだ、娘は遠くを眺めているような気がした。



「『合いの気』の祖は言ったでござる。『全ての体に満は』」
「じゃから! 説法はいいと言っておるんじゃ!」
翌日も晴れた日の下、今日も教えは続いていた。
「……では要約すると、昨日は自身の芯を把握したのでその次。気と体を教えるでござる」
「いきなり二つもかえ?」
「この二つは密接なかかわりがあるでござる」
挟まれる口を気にせず続ける。
「人は芯、気、体で形作られているでござる。昨日実感したと思うでござるが。芯は心、心は魂に通じる中心で言わば軸でござる。気は芯と体の間を埋め流れ満たし動かすもの。体はその二つを収め、二つの思いに応えて動くもの。そこで今日はその気の存在と、気が動かす体を把握してもらうでござる」
「っ……」
そう言うと、娘が一歩後ずさる。
昨日のことを思い出しているのだろう。
「いやいや、昨日の様な事はしないでござるよ」
ひらひらと手を振り否定しておく。
「ほ、本当かえ?」
よほど辛かったのだろう。まだ疑う娘を宥めながら進めた。
「では、まず足先から頭まで全身を鉄棒のように直立するでござる」
「こうかの」
娘がピンと真っ直ぐに立つ姿は、それだけで様になっていた。
「ちょっと失礼するでござる」
それに近づくと腰の部分に手を這わし。
「何をするんじゃっ!!」
「ぐふっ!?」
体重の乗った張り手を喰らった。
娘は大きく距離を取ると怒気に満ちた目で睨み付けてくる。
「この生臭坊主め! 初めから儂を手籠めにするつもりじゃったんじゃな!!」
「ご、誤解でござる!」
ひりひりと腫れた頬を押えながら弁解する。
「やましい気持ちは無かったとは申さぬが、これは本当に必要なことでござるよ!」
「……やましい気持ちはあったんじゃな?」
滑り出た失言に娘は目を細め、頬を冷や汗が伝った。
「あ……いや、その……で、ござ……る」
しどろもどろになっていると、ため息を吐かれた。
「はあ……まあよいわ。ほれ、早ようせい」
そう言って娘は背を向けて立つ。
慌てて近寄り娘の背へと回ると、冷たい声が流れた。
「変なところを触るでないぞ」
「しょ、承知したで、ござる」
手をゆっくりと腰へと這わせる。
「……ん、んっ」
腰骨の窪んだ部分を指で探り、その形に沿って押し擦っていく。
「はっ……ん……ひ、ぅ……っ」
「……あまり動かれぬようお願いするでござる……その、声も……」
指がコリコリと刺激するたびに、微かにくねる腰と押し殺された声で中々集中できない。
「そう……言われ、ても……ふぁっ」
務めて動きと声を意識の外に排出して続けていると、指先に違和感があった。
「むむ?」
「はうっ!」
それは覚えのない形で。何度も探り擦り抓み確かめてみる。
「ひっ……あっ……うぁ、は、くぅ……っ」
「……尻尾でござるか」
耳以外の人との違いに納得した。
すると、娘が肩越しにこちらを睨んでいて。
「遊んでないで早ようせいっ!!」」
「はいでござる!?」
そして数度ほど触り。
「……ここでござる」
ぐり、と指を強く押し込んだ。
「きゃうっ!?」
娘が大きく飛び上がり、そのまま怒鳴ろうとして。
「や、やはり儂を手籠めにっ! ――あら?」
「よっと」
くたりと膝が折れ倒れそうになった娘を支えた。
「ん? んん?」
娘はしがみついたまま何度も自力で立とうとするが、足はへろへろとして上手く立つことができないでいる。
「な、なにをしたんじゃっ」
必死にもがく娘を支えながら返す。
「少し腰から下の余分な気を無くしただけでござる」
「余分な……気じゃと?」
見上げてくる瞳に頷く。
「そう余分な気でござる。そして今日はこの状態で直立してもらうでござる」
「無理じゃ!」
即答を無視しながら強引に体を持ち上げ立たせる。
「手を放すでござるよー」
「待て待て待てぃ!」
「……しがみつかれては意味がないでござるよ」
しっかりと手を掴み離すまいとする娘をたしなめる。
「じゃ、じゃが……」
「はいはいやるでござるよ」
ぐずるのを振り払い娘の手を剥がす。
「わっ! わっわっわぁっ!!」
娘はよたよたと踏ん張ろうとするが。
「はうっ!」
力が入らず崩れ落ちた。
「ほい」
それを支えながら、また立たせる。
「は……わっわっ!」
またすぐに崩れる体を掬いながら説いた。
「コツは昨日覚えた芯を意識するでござる。芯が定まれば自ずと気も体も従うでござる」
手を放すと三度娘がふらふらと揺れる。
「し、芯を、意識……するっ」
すると先ほどよりも長く体は持ち。
「はっ……ほっ……ふっ」
「その調子でござる」
「やっ!」
ぴたりと体が直立し――
「あわっ!」
崩れ落ちた体を支えた。
「崩れず直立できるまでやるでござるよー」
それは何度も繰り返され。

「はっ」

百を過ぎた当たりだろうか。
汗をかきながら、娘はそれを成しえた。
「で、できたのじゃ」
震えながらも出された声に賞賛を返した。
「おーおー見事でござる」
萎えた下半身で上半身の芯を見事に捉え直立している。
「どうじゃ!」
器用に胸を張る娘を可笑しく見ながら、肩へと手を置いた。
「いや、本当に良くやったでござるよ」
「おわっ! あぶな! ふ、ふふん!」
兎なのに天狗になっている娘はより胸を張り。
「これで次は首から下も大丈夫でござるな」
「え?」
理解できないと言う顔をしている娘を見ながら、肩に置いた手を首筋へと移動させて……。
「ま、待て待て待て待てぇぇええ!!」
「待たぬでござるよー」
「お、鬼じゃー!!」
「拙僧は僧侶でござるよ」
ツボを捉えた。
「きゃうっ!?」



「こ、これで……どう……じゃ……」
西日が茜色に染まる中、長い影が二本あり。
そのうちの一本は何度とない末にようやく形作られたものである。
「ふむ」
赤く染まりつつ立つ娘を見る。
全身に力はなく、だがそれでも芯を捉え、その体を支えているのがわかった。
「文句なしでござる」
その言葉に娘は喜ぶよりも精根尽き果てたとばかりに安堵の息を吐くのを眺める。
元より獣の体感があったとはいえ常人なら数ヶ月、前の芯の実感でさえ半月は毎日投げられないとわからないのだが。
「さすがでござるなあ」
「お、終わり、かえ?」
震えながら言う娘にいやいやと首を振る。
「最後の仕上げがあるでござるよ」
「ま、まだあるのかえっ」
緊張する娘はそれでも直立を崩さず。
「これは簡単でござる……よっ!
すぱーん! と快音を響かせて娘の尻を張った。
「ひきゃあッ!!」
それに娘は飛び上がると、殺意の光を瞳に宿しながら体を反転させ。
「な、に、を、す、る、ん、じゃぁぁぁあああッッ!!」
全体重と全身の力が乗りに乗った渾身の後ろ回し蹴りが鳩尾へと叩き込まれた。
「お……ぼ、え……」
意思とは関係なく体が勝手に崩れ落ちる中、湯気が立ちそうなほど怒りを露わにした娘がまだ足りぬとばかりに足蹴にしてくる。
「くのっ! くのっ! くのっ! この生臭坊主! 淫行僧侶! 破戒僧!! 地獄に落ちてしまえ! くのっ! くのっ! くのっ!」
「げふっ! がはっ! ぐえっ!」
止め処なく蹴られ続けていると。
「くのっ! くのっ! ……ん?」
ふと娘が足を止める。
「む? ん? むむぅ〜?」
手や足、体のあちらこちらを動かして首を傾げた。
「なにやら力が戻っておる。そして不思議な感じが……」
そう言って足を振り上げ、振りぬく
「うべっ!」
「体を動かすたびに、体の中を何かが流れるような」」
首を傾げる娘に、よろよろと立ちながらとぎれとぎれに説明する。
「が……ふ……そ、それは……気、でござる、よ……」
「これが、気……」
娘は自身の手を眺める。
「一度余分な気を取り払い最低限の気で体を動かすことを覚えさせ、覚えたところで気を戻すと少ない気に慣れていた体はよりその流れを実感できるでござる」
鳩尾を撫でながら答えると娘は感慨深そうに頷いた。
「てっきり儂の体を触りたい放題するためかと思っておったわ」
「……」
「これ……なぜ黙るのじゃ」
その声に答えずに西日を見た。
「今日もいい一日でござった!」
「ちぇりゃあ!」
「がふっ!?」
飛び蹴りが頭へと決まった。



夜の帳の中、どうどうと滝の音に混じり、ぱちぱちと薪の燃える音が混じる。
「お、そろそろ食べ頃でござるな」
滝の水辺の傍。たき火を囲うように串に刺した川魚の焼け具合を確かめる。
空に浮かぶ月は細く、星が強く輝いている。
「あつ、はふほふっ」
焼けた順から川魚を食べながら、耳を澄ませる。
すると周辺の生物の息遣いが聞こえてくる。
虫の音、動物の足音、鳥の鳴き声。
それらは心に安らぎを与えてくれる。
確かに一人だけど、それらがある限り、決して独りではない。
自然の音色を楽しみながら三匹目の川魚に手を伸ばした時だった。
「はふ?」
視界の隅で、藪からひょっこりと見覚えのある二本の耳が突き出している。
その耳は長く、黒く、草食の獣のものらしく。
「むぐむぐ……ふむ」
魚を早々に食べながら少しだけ考え……考える必要も無いと思いなおした。
「どうしたでござるか」
声をかけるとビクリと耳が動き。
「……」
やがて藪から思った通り娘が姿を現した。
まるで悪戯が見つかった童のように居心地が悪げな風であった。
それを見て、たき火の傍をぽんと叩く。
「どうぞでござる」
娘は躊躇ったが、意を決して座った。
「食べるでござるか」
「……」
焼けた四匹目を示すが、娘は無言で首を横に振る。
「はむ……ほふほふ」
それ以上急かす事も無くただ娘はたき火を眺める。
「……のう」
ぽつりと口が開いた。
「お主の目的は……話せぬのじゃな」
「申し訳ござらんが……」
その目的は娘には語ることはできない。
娘は気にすることなくさらに続ける。
「言えぬものでも……お主には目的があるのじゃ」
たき火を眺めたまま娘は言葉を紡ぐ。
「儂には……無いのじゃ」
「無い、とは」
ただ無感情に娘は語る。
「儂ら妖怪には生まれ着いての役があるのじゃ。鎌鼬なら転ばせ切る、きつ……狸なら化かす、鬼なら荒らす。それが妖怪、それが化生じゃ」
その横顔はどこか寂しく。
「じゃが儂にはそれが無い。化かすこともできず、転ばすこともできず、荒らすなど力が無い。それどころか人を見ただけで恐ろしく、逃げるのが関の山じゃ」
その言葉には迷う思いが混じる。
「どこか胸の奥で焦げ付き訴えてくる声があるのじゃが。それは小さくそれは恐ろしくて……思いに耳を傾けることも出来ず、無い目的を抱えたままただ空回るばかり……」
ゆっくりと娘がこちらを向いた。
「のう……儂はどうしたらいいのじゃろう?」
「……」
その瞳は泣きそうな迷子のようであった。
「昔……」
口が勝手に動いた。
「昔とある場所に貧しい家があった。
家は武家であったが領地は狭く、子宝に恵まれずその家は非常に苦労した。
だがある時、待望の子が産まれ、父と母は大層喜び、その子を大事に育てた。
その子には才気があり、家の伝える武術を瞬く間に習得し、あらゆる書の知識を吸収し、神童と呼ばれた。
貧しいながらも注がれる父母の愛。それに応えようと子は必死に努力し、やがて若者といえる年となった。
そんなある日、神童の噂を聞きつけた主君の目に留まり若者は傍に控えることを許された。
父母は大変喜び、若者を家の誇りと言った。
若者も主君に仕えることで、より家に、父母に報いることが出来ると喜んだ」
それはどこかの遠い話。
「仕えてから数年は目まぐるしく働いた。
全ては主君の、家の、父母のためだけにその若者は働いた。
そしてある日、内乱が起きた」
「……」
「主君の弟が、兄を屠り跡目を継ごうとのだ。
若者は主君に従い共に主君の弟とそれに付き従う兵を迎え撃つことになった。
そして戦の日。
初めて挑む戦に胸躍らせて駆ける若者の前に、一人の鎧武者が現れた。
その武者は強く戦いは熾烈を極めたが、苦戦の末に最後はその武者の首を取った」
思い出すはむせるような血の臭い。
「そしてその首を確かめようと、兜と、仮面を取ると――見間違いようの無い父の顔があった」
「っ」
娘が息を呑む。
ただ淡々と語る。
「若者は逃げた。
戦場から一目散に逃げ出した。
もう若者の頭には主君のことなど無く。
大事な父の首すら捨てていた。。
全てが崩壊した気がした。
なぜなら、主君の忠誠も見につけた武も智も……全ては家のため、愛すべき父母のためだったのだから。
神童とまで言われた若者は、全てを捨てて逃げていた」
手は首を持った重さをありありと思い出し。
「そしてその後、若者は逃げた末に仏門を叩くのであった……でござる」
ぱちりと薪が爆ぜた。
「……」
言葉も無い娘を見て、たき火に新たな薪をくべながら締めくくりにかかる。
「若者は生きる目的すら全て捨ててしまったでござる。でも、今もどこかで生きているでござろう。生きる目的がなくとも、生きることはできる。もし、どうしても目的が欲しいのなら」
娘の目と目を合わせ、茶目っ気たっぷりに言った。
「目的を探すことを目的にすれば良いでござるよ」
その言葉に。
「ぷ……なんじゃそれは」
小さな笑いが起きる。
「目的を探すことが目的とな? 本末転倒じゃ」
「いやいや真面目でござるよ」
「どこがじゃ」
「それに目的を探すために旅などすると、まったく違うものが見えてくるでござる。北へ南へ東へ西へ。見聞を広めるのも良いでござるよ」
「旅……それもいいのう」
「なんなら仏門も――」
「それじゃ嫌じゃ」
そして幾場か小気味よく話した後、すくりと娘が立つ。
「夜分まで邪魔したのう」
いやいやと手を振り、同じく立とうとして。
「送るでござるよ」
それに娘はくすくす笑う。
「これでも儂は兎。闇夜の中で人に送られるほど間抜けではないわ」
そう言うと止めるまもなく身を翻し。
「また、明日の」
黒い兎は跳ねながら森へと消えていった。
それを見送った後、ぱちりと薪が爆ぜて。
「……寝るでござるか」
胸が暖かいまま、明日を早く感じたいがために、横になった。



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