「明月・前編@」 作:匿名希望 「だがな、やっばりあぶなぁよぉ」 その声は方言か少し間延びしつつも心からの心配を覗かせていた。 「いくらってもごのお山にゃ、あやかしいが出るんじゃぁて。そげにきんじゃあ山賊がきとぉと」 場所は山麓、日は頂点。 初夏のこの季節、眼前の山林からは青臭いほどの木々が森となり広がり五月蠅いほどの蝉時雨が響く。 「だからよぉ、やっばりお山にゃぁ」 山の入り口、先ほどから不安げに話す老農夫の言葉を遮った。 「いや心配してくださるのはわかるが、節操これでも僧侶でござるから。それにその妖が目的でござるし」 召し物は裾が擦り切れた法衣。薄汚れてはいるが着続け使い込み服に染みついた感がある。 それはいかに僧侶が長くに渡り法衣を身に纏って旅をしてきたと言う証である。 が。 「やっば心配だがぁ……」 「あらら……でござる」 そう言われるのも無理もない。 痩せているでもなく太っているでもなく中肉中背、背は少々高め。ぼさぼさの坊主頭に浮かぶ表情は良く言えば優しそう、正直に言えばしまりがなく頼りない。 「やっばここは待宵ざまに」 僧侶はぼりぼりと頭を掻くと、カラリと笑みを浮かべた。 「何、拙僧も仏の道を往く者。徳高き仏のお導きがあるでござるよ!」 「……」 まだ不安な目を向ける老農夫を気にしないようにして、僧侶は一礼すると背を向けた。 「ここまで案内ありがとうでござる。これにてっ」 そして何の躊躇も見せず山林へと足を踏み入れた。 がさがさとぼろい法衣が藪へとまぎれて、瞬く間に見えなくなっていった。 それを老農夫は最後まで見届けた後、ぽつりと言った。 「やっば大丈夫がなあのお坊ざん……」 やっぱり信用のない声は蝉の音に紛れて消えた。 走る、走る、走る走る走る走る――走る!! 藪を蹴り払い、地を蹴りつけ、風を蹴り切って進む! 熱い……。 初夏。いくら森の繁る木々が日を遮ると言っても、やはり風は生ぬるく、身に着ける布は汗で張り付き熱がこもり、長い髪がまとわりつく。 暑さとそれによる不快感。 己に何も落ち度はない。 ただ突如狙われ、こんな状態になるなど誰が予想できるか。 盛り上がった木の根を跳ねて越しながら『自慢の』耳を後ろへと澄ませる。 「……」 そこでは遠く、だがまだ追いすがる音が聞こえる。 多少引き離したが、撒いたとは言えない。 これだけ走らされるなど今まであっただろうか。 そうこう考えている内に記憶の地図がこの先の要注意地点を掘り起し。 「……っ」 一際生い茂る藪へと突き進む。 幾重にも重なる藪を強引に突っ切り、枝や葉が頬を服を霞めるが速度は一切緩めない。 そして覚悟を決め、一歩、二歩……跳んだ。 藪を突き抜けた先には地面は無く軽い崖のようになっている。 「――」 宙に飛び出した恐怖を抑え込みながら、これで少しは引き離せると思い、着地地点へ目を向け。 そこには人が突っ立っていた。 「……っ!?」 驚きは瞬時に焦りへと変わる。だが宙に投げ出された体で避けることなどできるはずもなく。 「っ――っ!!」 「おろ?」 こちらを見上げて間の抜けた声を聞きながら、数瞬後に起こるであろう惨劇を身構えるため目をきつく閉じた。 次の瞬間―― 「――」 ――世界が回った。 とん、と比較的軽い音がした。 「……っ」 ただ娘は目をきつく閉じたまま。 「……?」 だがいつまで経ってもやってこない衝撃に不思議に思ったのか。うっすら目を空けた娘は。 「…………???」 ぱちぱちと何度も目を瞬かせ、なぜ自分が無事なのか理解を成してなかった。 その不思議そうな娘を見ながら考える。 愛らしい顔立ちに漆の様な艶のある長髪。まだ成熟には程遠い体を多少汚れているが贅を凝らした着物を身に纏う。 これだけでも際立っているのだが。 特に、耳。 頭の天辺からひょろりと伸びた兎の様な二本の黒い耳が、その娘を人ではないと表している。 「……っ……、……」 さらに、汗で髪は肌に張り付き、着物は枝葉が絡み、息を上げている様は尋常でない状況を表しており。 「ふむ」 とりあえず声をかけることにしてみる。 「今日はいい天気でござるな!」 片手をシュタッとかかげ、できる限りの慈母溢れる笑みを作り。 「……」 「……」 それははたして。 「――……」 娘はまるでぼろい身なりの胡散臭いおっさん僧侶に突如声を掛けられて、嫌だなぁ〜どうやって逃げようかなぁ〜、と思案しているような顔になった。 「あ、あはっ……ははは、でござる……」 正直心が挫けそうだった。 だがなんとか持ち直すと改めて話しかける。 「娘さんいかがなされたでござるか。いきなりあのような場所から飛び降りてきて、まるで追われているような――」 そう言って崖を指差した時だった。 「っ」 ぴくりと娘の耳が動いた。 「うおらぁっ!!」 突如響いた大声に目を向けると、崖端の藪から巨漢が飛び出していて。 「――」 迷わず行動した。 「危ないでござる!」 「っ!?」 「ぐげぇっ!!」 どちゃっと嫌な音と蛙が潰れるような声がした。 「「「…………」」」 場を沈黙が支配するが、腕の中で縮こまっている娘への目を見た。 「大丈夫でござるか?」 「……っ……っ!!」 何度も頷く娘を見て微笑んだ。 「ならよかったでござる」 「よかぁねぇよッ!!」 目を向けると潰れていた男が起き上がってきていた。 「あてて……」 着古し垢に薄汚れた服に丸太の様な手足が伸び、常人よりも二回りは大きな体は分厚く、その上にいかにも人を恫喝し慣れた凶悪な顔が乗って、その腰に無雑作に差された刀が男の職業を物語っていた。 噂の山賊であろう。 男は頭をさすりながら怒鳴り散らす。 「てて……おい坊主! てめぇ仏門だろう!」 娘をそっと降ろすと、法衣の裾を広げて見せる。 「この通り、仏に使える者でござるが」 「なら何で俺様を助けずさっさと身を引いたんだよ!! 仏は救いの神だろうが!!」 「あーいや、正確には神では」 「んなことはいいんだよ!」 かっかと怒る男をまあまあと手で制する。 「ふむ。確かに仏は救世の主。その仏に仕える拙僧も人々を救世する責務があるでござる」 「だったらっ!」 「だがっ!!」 怒鳴る男に負けずに声を張り上げた。 「崖から飛び降りてくるむさ苦しい大男と、それに潰されんとする見目麗しき娘っ!! どちらを助くるかっ」 ぐっと握り拳を作ると力を込めて眼前へと持ってくる。 力を込め過ぎた拳はブルブルと震え。 「もう答えは決まっているでござろう」 心からの笑みを浮かべた。 「……」 それに男は感銘を受けたのか顔を伏せてぶるぶると震えていた。 「……わかってもらえたでござるか?」 男は顔を伏せたまま。 「……こ」 「こ?」 男が勢いよく顔をあげる。 そばで娘が怯えるのを感じた。 「虚仮にしやがってぇぇええっ!!」 怒りに赤黒く染まった顔を向け、男は刀へと手をかけた。 ……怒らせるつもりはなかったのだが。 「やれやれ」 怯える娘を脇に下がらせると男へと相対した。 足は自然、手は自由、腰は自立し、体は自在、脳裏に描くは自の教え。 『この世に絶対の理あり――』 それはすでに身体に染みついた教えであり。 「おりゃぁあああ!!」 斬りかかってくる男を見る。 「――」 腕の振り、肩の位置から“円”を読み、刃の軌道を読む。 迫る刃をあえて斜め前に出ることで躱し。 「っ!」 空振った刀を男が斬り返す――前に腕へと触れた。 「あ゙?」 それを感覚に表すなら『引っかけた』に近いであろう。 だが男は容易く本人が思った以上の大振りをして、その勢いにつられて上半身も反り返り――体ごと空転して地面へと叩きつけられた。 「ぶべっ!?」 本当に潰れた蛙の様に地べたを這う男の前に刀を踏みつけながらかがむと、その頭に指を一本置いた。 「短気は損気でござるよ」 「て、てめぇ……ぐ? ぬうっ?!」 指の先で男がもがくが、それ以上の事が出来ずこちらを睨みつける。 「た、立てねぇ!? 何しがった!」 「何とは? 拙僧はただ指を置いているだけでござるが」 そう言いながらも、巧みに男の重心を捉え指先で押さえ込んでいると。 ぴくりと娘の耳が動き崖の方を向き、それにつられて目を向ける。 がさがさと崖の藪が揺れた。 「お、おやぶーん! っておわ!? が、崖だ!」 崖から落ちかけながら、藪から数人の男たちが顔を出す。 そしてこちらを見て。 「あ、親分!」 そちらの方に少々気を取られていたためか男――改め親分は一気に指を振り払うと転がりながら間合いを離した。 そのまま不格好に立ち上がると親分は子分どもを怒鳴りつけた。 「てめぇら遅いじゃねぇか!!」 「親分が早すぎるんですよ!」 返してくる子分の言葉を気にすることなくこちらを見て。 「まあいい、てめぇらこっち来い」 親分の言葉に。 「「「…………」」」 全員無言だった。 「てめぇら!!」 怒鳴り声にボソボソと声が返る。 「い、いやだって……」 「ここ高いし……」」 「な、なぁ?」 口々に出される言い訳。 「っ〜〜っ!!」 怒りで口を鯉のように開閉させる親分を眺めながら、屈んだ状態からゆっくりと立ち上がった。 「っ!!」 じり……と後ずさる親分。 「まだやるでござるか?」 その問いかけに。 「お、覚えてやがれ!!」 親分は一目散に走り去っていった。 「「「お、おやぶーん!」」」 あ、と言う間に見えなくなる背中とそれを追う子分たちを見送る。 「まさかそんな台詞を聞く日が来ようとは……」 感慨深く頷きながら、ひょいと背後へと手を伸ばした。 手の先には襟首を抓み上げられた娘がいる。 こっそりと逃げ出そうとした所を見事捕獲していた。 「これこれ。状況からしてさっきの山賊に追われていたのでござろう? 恩を返せとまでは言わぬが、せめて礼の一つぐらい良いではないでござるか」 「……!」 じたばたと抵抗する娘を見ると、ゆらゆらと揺れる耳が目についた。 「ふむ……立派な耳でござるな」 思わず手を伸ばした。 「――ッ!!」 娘は近づく手に向けて思いっきり歯を向いて噛り付く。 「あいたぁ!?」 「――っ――っ!」 痛みに思わず手を放した隙に、娘は走り出す。 「あーいた、あーいたた……」 ふーふーと噛まれた部分に息を吹きかけている間に娘は森の中へとまぎれて消えた。 そして。 「……はて、拙僧の目的は……」 娘の黒い兎の耳を思い出し、途方に暮れた。 ざかざかと分け入る。 がさがさと進む。 見慣れた山、見慣れた森、見慣れた道をひた走る。 走りながら考えるのは先ほどの僧侶の事。 飛び降りる先にいて、ぶつかるかと思えば何事もなくそこに立っていて。頼りなく胡散臭い僧侶だと思えば、山賊と相対して瞬く間に撃退してしまった。 ただの僧侶とは思えない。 あの軽く触れただけで山賊の親分を宙に舞わせた姿が脳裏に焼き付いている。ふと足を止めた。 「……」 振り返った先に、まだあの僧侶がいるのだと思うと何やら胸がもやもやし。 「――」 関係ないと振り切る様に、また走り出した。 「ふむ……」 そう声を出すのは何度目か。 あれからあてもなく山中を彷徨い続けていた。 この山は豊かだった。 木々は生い茂り。虫や動物が多数生息し、木の実や山菜、川に行けば魚が泳いでいて食うには困らない。 だが、いくら食べ物が見つかっても目的を達しないのなら意味は無い。 空を見れば日もだいぶ傾いてきている。 「今日はこれぐらいにするでござるか」 足を止めると、野営地を求めて道を外れる。 しばらく歩くと木々の間隔が徐々に拓けてきて。 「……これは絶景でござるな」 森を抜けた先、拓けた場所に大きな滝が落ちる水辺があった。 どうどうと降り落ちる水音が響きわたり、ひんやりとした空気が肌を撫ぜる。大きく息を吸うと肺腑が澄み渡るようである。 中々にいい場所を見つけたと思った。 ここを暫しの寝床と決める。 「さて、腹ごしらえの前に」 法衣の裾を広げ鼻を近づける。 つんと汗の臭いがした。 夏のこの季節、山を歩くのはさすがに汗ばむ。 「よっと」 手早く法衣を脱ぎにかかる。 このまま洗うのもいいが、先に汗を流したかった。 そしてそこに現れたのは褌一枚の裸体。 こんな山奥で盗人に遭遇することは早々ないだろうと一式をまとめて脇に置くと、水辺へと踏み出した。 「とう、でござる!」 どぼんと水へと潜る。 水は冷たく心地よく。水に沈んだまま水面を見上げる。 水面は落ちる滝でゆらゆらときらきらと幻想的で―― どぼん、と水中に音が響いた。 「?」 なにやら水面が激しく揺らめいていて、滝から流木でも落ちたのか。 確認しようと水底を蹴って浮き上がる。 「ぷあっ」 顔を水面から出し、周囲を見渡し――言葉を失った。 「――」 水面に広がる墨を流したような漆黒の髪。晒された肢体は水を弾き、その肌は溶けるように白くきらめく。頭から伸びた黒い兎の耳は水に濡れて艶光る。 愛らしい顔に浮かぶ憂いが合わさり、まるで夢ではないかと錯覚する。 「――」 美しい……妖しいまでの美しさに目を奪われていた。 いつまでそうしていただろう。 水浴びをしていた娘の視線が自然とこちらへ向いた。 「……」 「……」 無言。 「…………」 「…………」 ただひたすら両者無言。 「あ、あの拙僧は……」 堪えきれず沈黙を破ると、娘はじゃぶじゃぶとこちらから反対側の岸に上がると着物を羽織り、石を掴んだ。 「へ?」 「――ッ!」 投石。 「おわっ!?」 娘は次から次へとこちらに向かい投石を繰り返してくる。 「あだっ! あだだっ!! の、覗こうとしてたわけじゃないでござるよ! あだっ!?」 無言だが薄く涙目になり娘は石を投げ続ける。 「……っ! ……っ!!」 ただでさえ自在に動けぬ水の中、次々に投げられる石が頭へと当たってくる。 「すまないっすまないでござるぅ!!」 必死に石から身を護っていると、ふと投石が止んだ。 「……む?」 見ると娘が着物の襟を押えて閉じると、そのまま背を向けて跳ねるように木々の間へとまぎれてしまった。 その去り際に、ふわりと着物の裾が翻るのを見逃さず。 「うむ。小振りながらも良い桃でござる!」 そう呟いていた。 「……」 ちょっと後悔した。 落ち込みながらもふと娘が去った岸辺を見ると。 「むむ」 そちらに近づき、岸辺へと上がる。 そこには立派な意匠が施された帯があった。 「ふむ」 帯を手に取り、娘の行った方角へと目を向けた。 すでに日は落ち、枝葉が空を覆いおぼろげな道をひた進む。 夜の山。夜の森を進むことのなんと愚行か。しかも道を進むと言っても、獣道ともしれない微かな道を大雑把な方角と言う不確かな歩みで進んでいるのだ。 だがはたして。 「……」 それはあった。 木々の切れ目の先。半場崩れ植物に侵され周囲と同化した門が月光に照らされ浮かび上がっていた。 さらに視線を先に送ると、闇と緑に埋もれるように積み上げられた石の壁が聳え立っているのが見えた。 「……墜ち朽ちた城跡でござるか」 口に出して自身で納得した。 朽ち方を見る限り、少なくとも百年。もしからしたもっとかもしれない。 当時はさも立派な城であったであろう。 そう思いながら一歩を踏み出そうとして、何かがいた。 「――」 朽ちた門の傍、それはいる。 膝を抱えうずくまる小さな姿。 月光に照らされる黒い兎の耳。 朽ちていくモノたちに寄り添うように、そこに娘がいた。 「……っ」 コウ、と紅い瞳がこちらを見つめていた。 その瞳はこちらへの警戒がありありと浮かぶ。 「ああいや、警戒しないでほしいでござる」 無理な話だと思いつつまず要件を話すことにして、横手に抱えていた帯を差し出した。 「これを忘れていたので届けにまいったでござる」 「……」 娘は依然警戒をしているので、そっと地面に置くとそのまま距離を取った。 「これでいいでござろう?」 それに娘は静かに立ち上がると、慎重に近づいてくる。 「……」 そして帯を手に取ると、娘は素早く身を離し門の傍まで戻る。 それを確認してから声をかけた。 「それで少し話がしたいのでござるが」 きっかけを探しながら言葉を紡ごうとして。 「――着付けをする、後ろを向いておれ。話はその後じゃ」 「これは失敬でござった」 着付けを始めた娘の言葉に素直に背を向ける。 背を向けて、そこで初めて娘の声を聞いたことに気が付いた。 衣擦れの音が暫し響き。 「もうよいぞ」 振り返るとそこには黒い着物を着こなす娘がいた。 ふるふると長い耳が震える。 「それで……」 思わず見とれていると娘から口火を切った。 「それで坊主、話とは何じゃ?」 その言葉に我に返った。 息を吸うと娘を見ながら口を開いた。 「この山に住むという黒い兎の化生に用向きがありまいったでござる。その兎の化生とは御前のことでござるか」 「この山に他に黒い兎の化生がおらぬのなら、儂ということになるのう」 娘はその黒くて長い耳を抓み示しながら続ける。 「坊主が儂に何の用じゃ」 その言葉には堂が入りどこか気品が漂っている。 「……とある方より頼まれ、それを果たすために御前に用があるでござる」 それは返答になっていない返答。 娘は微かに眉をひそめ、問いを重ねた。 「ほう、そのとある方とは何者じゃ」 「言えぬでござる」 「その頼まれ事とは」 「言えぬでござる」 「儂に関する用とは」 「言えぬでござる」 「そも主は何者じゃ」 その言葉に両手で大きく袖の下を広げ。 「見ての通り、ただの僧侶でござる」 「話にならぬわ!」 娘は憤慨した。 「どうせ大方、村の者に妖怪退治を頼まれたのであろう!」 そのまま娘は話をどんどん進めていく。 「生憎じゃがそのような者は幾人もこの山に来たが、誰一人としてそれを成しえられなかった。残念じゃのう!」 得意げになって、ふふんと平坦な胸を張る娘を見て、少し困ったように腕を組んだ。 「別に退治する気はないでござるが。ただ話を――」 「説法かえ? だとしても聞く気などさらさらないがの。退治にしろ説法にしろ世間話にしろ、聞かせたいなら力づくでやるんじゃのう」 最も捕まえられるはずもないが、と娘は笑った。 確かに娘は小回りの利く機敏な兎に化生であり、なによりこの山を知り尽くしている。 相当な健脚と体力がなければまず追いつけることは無いだろう。 「……ふむ、それでは」 だが―― 「……ほう、来るかえ?」 腕組みを解くと、娘が警戒を強め足はいつでも逃げられるように軽くたわむ。 「ほい」 次の瞬間、“一歩”踏み出して細い手を握った。 「――は?」 呆然と口を開ける可愛らしい顔がそこにある。 意識の“間”を縫っての動きは、娘にとって唐突だっただろう。 一足一手を見張っていた相手が、いつの間にか目の前にして自らの手を握っているのだから。 「こ、この離さぬかっ」 娘は慌てて手を振り解こうとするも。 「いやいや、そう言わず」 繋がれた手はぶらぶら揺れるだけで、振り解くどころか力を込めることさえ難しい。 「く、くのっ!」 脛を蹴ろうとするも手を押されて崩れた姿勢で蹴りは出ず、反転して強引に走ろうにも手を引かれて体の向きさえ変えられない。 必死な娘を見ながらちょっと握った手が気になった。 「中々に細やかな指、女子らしい手でござるな。拙僧少し胸が高鳴ってきたでござる」 そんなことを言ったのだから。 「は、な、せっ!」 繋いでいる手に向かい、娘が噛みつこうとして。 「よっ」 「おわっ!?」 くるり、と空振った勢いのまま。娘は宙返りをした。 「そっと」 その小さな体が腕の中へと納まる。 「――」 今日何度目かの呆然とした顔を眺めながら、娘へと言った。 「これで力づくということで、もう少し話を聞いてもいいでござるか」 「め――面妖な『術』を使いおって……っ」 絞り出すように娘は返した。 「術ではなく『技』でござるが」 離れようともがく娘をあやしながらも訂正し、そして再度聞く。 「それで話を――」 「ええい! わかった! わかったわ!」 根負けした娘がやけくそ気味に言う。 「ではっ!」 「じゃが!!」 こちらの声に娘は被せた。 「この面妖な『術』を儂にも教えるのが条件じゃッ! やられっぱなしではこの気が収まらんわ!!」 その提案に。 「――良いでござるよ」 自然と口端が吊り上った。 それは粗末な小屋であった。 もう何年も前から見捨てられ放置されたその小屋に、怒号が響き渡った。 「てめぇらぶっ殺されてぇのかッ!!」 「「「ひ、ひぃぃっ」」」 小汚い小屋の中。そこには怒鳴る一際大きな男と、怒鳴られ小さくなる三人の男がいた。 大男……いや山賊の親分は三人の子分をじろりと睨むと、舌打ちをして目を離した。 「もう過ぎたことはいい」 「「「ほっ」」」 三人が安堵の息を吐き。 「だが次あったらただじゃおかねえからな!!」 「「「はいぃぃいいっ!」 そして親分は徳利を掴むと、酒をぐびりと呷る。 「……にしてもあの坊主。ただ者じゃねぇな」 「へい、それもですが……あの娘」 「おう、あれは上モノだ」 彼らが思い浮かべるは黒い兎の耳を持つ娘。 「あの着物からしても高く売れる。娘自身も物好きなやつらが大金を払ってくれるだろう」 人買い人売り人攫いなど珍しくも無い。 「あいつを逃がす手はねぇなぁ」 再びぐびりと酒を呷り。 「せっかくここまできて運が転がり込んできたんだ。精々しゃぶらせてもらおうか」 浮かべた笑いは、静かに小屋を満たした。 目次へ戻る |